– 親とむきあう - わたしの場合

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ヘアメイクアーティスト マリナさんの場合

20歳、都内のヘアメイク事務所に所属。23歳、フリーランスとして独立。25歳、単身渡米NY。メイクアップアーティストとして広告や雑誌などで経験を積み帰国。28歳、株式会社マールユナイテッドを設立し、撮影ヘアメイク業、スキンケアブランド「マールアペラル」の立ち上げ、ふるさと鹿児島をテーマにした地域貢献活動などで活躍。現在会社は14年目。多忙な日々を送る、ヒラノマリナさんのお話しをお届けします。

20代真っ盛りの時、母の病気ははじまった

母の病気が最初に発覚したのは、私が23歳の時。初期の甲状腺がんでした。ヘアメイクとして3年のキャリアを積み、次へのステップへ向かうタイミングでした。当時、ヘアメイクの仕事は修行ということでお給料はスズメの涙。このまま事務所にいたら海外に住むという子どもの頃からの夢を叶えるのに時間がかかると思い、独立を決心した時だったと思います。築80年の一軒家に5人でルームシェアをしてお金をためて、1年間だけでも留学したいと考えている時でした。

母の手術当日は、東京で母の無事を祈りながら過ごしたことを思い出します。母は、私には病気のことを言わないで欲しいと父と約束していたらしく、私は知らないことになっていました。無事手術は成功。その後、鹿児島に戻って母と過ごした方がいいのか悩みましたが、私がのびのびと頑張っている姿を見せた方が喜ぶはず!と、後ろ髪を引かれる思いはありましたが、自分の夢を叶えるため海外留学を決めました。そこから約2年半の留学を経て、帰国します。

海外でのヘアメイク撮影現場

会社を起業、そして母と向き合う日々

28歳になった私は、女性の様々なステージで可能性を制限せず、才能を発揮できる環境をつくりたいと会社を起業します。それと同時に、仕事一筋で遊びなんてしてこなかった母へ私が見てきた世界を見せてあげたい思いと、ふるさと鹿児島をもっと世界中の人に知ってもらいたい思いが膨らみ、鹿児島をテーマにした活動をスタートさせます。

それと同時に、東日本大震災や熊本地震など女性視点の被災地支援も積極的に取り組みました。病気と向き合っていた母に少しでも楽しみや、楽になってもらいたいという思い、そして、母がしてきた誰かのための一生懸命を私も行動で示したかった。

いろいろなことを経て、結婚したのは31歳。ちょうど会社設立から3年が経ち、スキンケアブランドを立ち上げたタイミングでした。夫婦で協力して30代を駆け抜けるぞと、仕事への情熱に溢れていました。

スキンケアブランドを立ち上げ、仕事への情熱が溢れていた日々

結婚式から3ヶ月が経った頃、母から病気が進行していることを告げられます。甲状腺のがんの術後、1年検診の時に再発ではない新しい乳がんが見つかっており、数年間は民間療法で進行せずに維持できていたのですが、病気の進行がはじまっておりました。23歳の頃から心の奥底でずっと不安だったこと。ついに来たか、と思いました。母は、長年続けてきた自然療法で病気と向き合いたい気持ちが大きく、標準治療はしないと決心していたので、私たち家族も母の意思を尊重することにしました。そこから、家族で病気と向き合う日々がスタートします。

母は、病人扱いされることがとても嫌な人でした。根本に、人に迷惑をかけたくない、負担をかけたくないという気持ちが大きかったため、私たちも普段通りに過ごすことを心がけました。全力でサポートはするけれど、出張にも行くし、やりたいことはする。例えば、母のそばにいる時間が多くなっているのも、その理由は母ではなく、あくまでも仕事が楽しいからと、母の気持ちに負担がかからないように常に考えて過ごしていました。そして、母の病気のことを知っているのは職場のごく1部の人たちだけ。朝から晩までバリバリ仕事をこなしていました。誰かの幸せをサポートできることが母の喜びでもあり生きる原動力だったのだと思います。

私たち夫婦が住んでいる家から実家は車で40分ほど。自然療法の実践は、毎日の人参ジュース、調味料をなるべく使わない食事、玄米食など食事の準備も単純ではありませんでした。毎日実家に通って食事をつくり、病院へ連れていく日々。1人っ子の私はこのどうしようもない気持ちを共有できる人がおらず、車の中で何度も何度も泣きました。

母のために毎日作る食事


仕事との両立の難しさと、母が病気だったからこそ得られた時間

仕事との両立で難しかったことは、2拠点生活だとタイミング良くその時その場所にいることができず、仕事の依頼を断ることが増えてしまったこと。3回断るともう仕事はきません。仕事が減ると収入も減ります。母は自由診療だったため、治療費を捻出することにもとても苦労しました。母の希望の治療を受けさせてあげたい一心で夫婦で頑張った日々でした。仕事場の人にも母の状況を話すことができず、悔しい思いをたくさん経験しました。

30代前半でまわりは仕事バリバリの時。人と比べることではないとわかっていても、動けない現実、言えない状況。今までバリバリやりたいことをしてきた方だったので、歯痒くて悔しくて心がボロボロだった。母が弱っていく現実と、必ずよくなると願う気持ち。日々葛藤でしたね。

30代前半、葛藤だった日々

よかったことは、何より母と過ごす時間が増えたことです。高校を卒業してから親元を離れ、たまの帰省も母は仕事人間だったのでお互い忙しくて、母と一緒に過ごせる時間は少なかったと思います。母の病気のおかげで母といろんな話をすることができたし、母の強さや弱さを知ることができました。ただ、私は1人娘で母のことが大好きだった分、強がって母にやさしい言葉や感謝を十分に伝えることができなかった。感謝の気持ちを伝えると、最期が迫ってきているようで言えなかった。もっともっとやさしい言葉をかけてあげたらよかったなとか、後悔がたくさんあります。

母の病気と家族で向き合った13年間。人生の中でも葛藤と悲しみと苦しみと、そのおかげで感じることのできた当たり前の毎日がどれだけ幸せかということ

次回は、わたしの実家じまいについて綴ります。