介護の海の泳ぎかた vol.5 ー「家族写真」のススメ

今しか撮れない写真がある。

我が家は四年に一回、フォトスタジオで家族写真を撮るのが恒例だった。
それまでは母の仕切りだったから、母を亡くして以降、その恒例行事が途絶えてしまっていたのが気になってはいた。

だけどフォトスタジオで撮る写真は、昔からむずがゆくて慣れない。
だけど父がいる、今の家族の記録を残したいという気持ちは強くあった。

父は、お散歩が好きだ。自分が長年暮らした地元への愛が強い。
というよりは、認知症の父にとって、子どもの頃の自分が過ごした地の記憶が一番色濃く残っているのは当然だろう。
父と一緒にお出かけしよう。そしてそれをプロのカメラマンに写真に撮ってもらおう。

「いまだ!」と決めてから決行までは、二週間を切っていた。
勢いと想いとラッキーが重なると、実現って案外できるものだ。

想いの実現は「日程調整」から

何かを実行するためにまずやることは、「日程調整」
兄弟と、おばの予定を確認すると、ピンポイントで「ここだ!」と奇跡的に合う日時があった。

プロのカメラマンにも、直前だし無茶だよな……と思いながら友人経由で打診した結果、どうにかこうにか来ていただけることになった。
もしかしたら誰かは多少無理をしているかもしれない、だけどとにかく調整すれば、日程は生まれる

父は、テレビでアラスカ特集をやっていれば、アラスカに行きたいと計画を立て出すような感化されやすい性格で、十年前なら語学的にも経済的にもすぐにアラスカに行ける実行力はあった。退職後、いきなり手話教室に通い始めたり、フランス語を英語で学ぶ講座に通ったりするほど父は向学心も高い(ただし、熱し冷めやすい性格は、娘の私もしっかりと受け継いでいる)。

そんな父は、63歳でアルツハイマー型認知症と診断された。
その診断の翌年、ずっと父の世話をしていくだろうと覚悟していたはずの母に、ステージⅣのがんが発覚した。
がんの発覚から一年半が経った頃、母は他界。

父も母も元気だったなら、ぎゃーぎゃー喧嘩しながらも、老後に二人で海外旅行もときには行っていたことだろう。
本当はアラスカくらい遠くへ連れていきたいけれど、
せめて馴染みのある駅周辺を眺めたり、喫茶店に立ち寄ったりしたい。そんなことを思っていた。

よし、みんなで中野駅へ行こう。

「家族写真」を撮った日

当日、カメラマンさんには、父がいる部屋も写して欲しかったので、朝一番から同行をお願いした。
朝9時半に施設へいくと、父は寝ていた。一度起きて着替えて朝ごはんを食べた後、また寝てしまったのだという。

懸命に起こして寝癖や洋服を整え、ふにゃふにゃという父に「中野に行くんだよ!」と奮い立たせる。
どうにか準備は整ったけれど、まだ眠気は残っているようでぼうっとしている。

兄と叔母とは、複合ビル「中野ブロードウェイ」で待ち合わせ。
中野ブロードウェイの中に、父が高校生の時から通っていた喫茶店がまだあるというので、そのお店にも許可をもらい、店頭と店内で撮影させてもらった。
アーケード街「中野サンモール」では人が行き交う中で目立ちながらも家族写真を撮ってもらった。
私たちが気恥ずかしさを感じているのが恥ずかしいくらいに、
中野を行き交う人たちは、生活あるいは趣味に忙しそうで、私たちをそう気に留めているようには思えなかった。

駅前にある「中野サンプラザ」は、今年の7月に営業を終了した。
取り壊しに向けて建物が覆われてしまっていても無理はないと思っていたが、
サンプラザの姿は変わらずに、まだそこにあった。
中野の人たちへ、ゆっくりとさよならを言ってくれているのだろうか。
おかげで無事に再会できた。

中野サンプラザがなくなって駅の工事が進んだら、父にとって見覚えのある中野は、もうなくなってしまう。
とはいえ、子どもの頃の父が見ていた中野はすでに形を変えているのだから、
どんな姿を見ても「中野だよ」と言えば父は「中野か、ふうん」とでも言うのだろう。

だけど今の中野を父と一緒に歩けたこと。
喫茶店で父が、アイスティーを口に溜め込んで飲み込んでくれなかったこと。
夏の暑い中、父が懸命にピースをし続けてくれたこと。
おばが「遺影に使うから素敵に撮ってよね」とカメラマンさんに圧をかけていたこと。

この日のことを忘れないように、写真に残せてよかった。

家族写真を、今撮る理由

あの時、こういう言葉をかけられていたら。
もっと一緒に過ごす時間を作れていたら。
動けるうちに、あそこに行っておけば。

病気や怪我はある日突然でもやってきて、昨日できたことが今日できなくなることはある。
認知症の父の介護、がんの母の看取りを経て感じたことは、「できるだけ後悔する量を減らしたい」ということだ。

正直に言って、それはキリがない。
母ががんステージⅣの診断を受け、抗がん剤治療を経て他界するまでの一年半、いや、最後の一ヶ月、一週間、十分間。

「もっと母自身の話を聞いておけばよかった」
「ホスピスの手続きをもっと早くしておけば」
「あの夜、家に帰らずに一緒に寄り添っていたら」
「あの時、手をマッサージしておけば」……

過去の自分のどんな些細な行動の裏にも、無数の後悔が生まれた。
たらればの世界線なんて考えても意味はないのに、何をしようが後悔はつきまとう。
だからこそ、今目の前にいる父については、できるだけ後悔を減らしたいと思っている。

母を亡くし、その後半年間は兄弟と一緒に認知症の父を在宅介護していた。
父に合う介護施設を探し、入所して半年強が経った頃、コロナ禍がやってきた。

在宅時は、父は一階の自分の寝室と二階のリビングを階段でゆっくりながら行き来できた。
施設に入所して一年目は、自分の居室から食堂までは徒歩で行き、自分の手で食事を口に運び食べていた。
一日でもそれが長く続くように、というのが父のケアの目標だった。

しかし二年目に差し掛かる頃には、
たびたびてんかん発作を起こす父は薬も増え、今までよりも傾眠が強く、足腰もみるみる弱り、移動は車椅子になった。

三年経った今の父は、
車椅子や椅子に座るときも姿勢を保つのが難しく、食事は介助して口に運んでも、飲み込むかどうかはその日の体調次第。
訓練は続けてくれているが病状は進行していて、発作を起こす度に父の体は弱っている。

父はコロナ禍で、四回入院した。持病のてんかん発作、コロナ感染。
入院となる度、コロナ禍では面会もできず、毎日病状を把握することもできず、
父は本当に帰ってこれないのではないかと恐ろしくなる。

家族写真を撮った三ヶ月後、父はまた入院した。
今の父と比べると、三ヶ月前の父は元気に見える。
退院に向けて少しずつ元気になっていくはずだけれど、おそらく三ヶ月前ほど元気にはならない気がする。
いや、そんな気持ちの持ちようで良いのだっけ?

見覚えのない病室で、知らない顔に囲まれ、寝たきりになる日々が続くほど、回復も遅くなる。
目の前に知ってる顔を少しでも置いて、好きな音楽をかければ少しは緩和するだろうか。
父の限られた「今」を見ること、少しでも父を元気にすること。
それを怠れば、私は絶対にこの先後悔する。

病院の限られた面会時間を言い訳に、遠方に暮らす私はまた、今日も父のそばにいない。

介護の海は、凪の中を行くこともあれば、小波も大波もある。
後悔先に立たず。ならば後悔の前に立ってしまえ。
「そのうちできたらいいこと」は、とにかく先に実現しなければいけない。

何度気をつけても、気がつけば私は仕事やら何やらを言い訳にしてしまうから、何度でも自分に言い聞かせる。

素敵な「家族写真」は万能じゃない。
だけど何年も経ってから、自分が課す後悔の、免罪符のような役割を果たすかもしれない。

今しか撮れない写真は、ある。
だけど想定していた状況から変わってしまったとしても、いつだって、遅くはない。

Photo by Shinta Yabe