介護の海の泳ぎかた vol.3 ー 30歳。「介護休職」という息つぎをした。

 介護も家族も、人それぞれ。介護の海の泳ぎかたも、それぞれだ。

 32歳で介護に海に放り出された頃は、孤独を感じていた。母のがん発覚、父の認知症。そんな話、飲み会や、友達とお茶を飲むような、カジュアルな席では重すぎる。自分の疑問や葛藤を受け止めてくれる本を探してみても、介護の本の対象年齢は上の世代へ向けたものばかり。読みたいと思う本にもなかなか辿り着けず、友達にうまく悩みを吐露することもできなかったあの頃の私は、誰にも見せない日記をつけていた。

 そんな日記をもとに書いたエッセイが書籍となり、2021年に『32歳。いきなり介護がやってきた。』を発刊した。その出版記念イベントに足を運んでくださり出会ったのが、小黒悠(おぐろゆう)さんだった。優しそうなオーラをまとったお姉さんは、「私も近い年齢で介護を経験していて、少し境遇が似ているんです」と言った。30代で介護をしている人と実際に出会ったのは、この時が初めてだったかもしれない。ああ、一人じゃなかったんだと、無性に嬉しかったのを覚えている。

 悠さんはどうやって介護の海を泳ぎ、今に流れ着いているのだろう。

– 27歳。母がフライパンを落とした朝。

 子供のころからお母さんと二人暮らしの生活が長かった悠さん。そのお母さんへの変化は、ある日突然訪れた。

 「母が60歳のとき、脳梗塞の発作を起こしたんです。その時私は27歳でした。ある日朝起きたら、母がフライパンを落とす音がして。話しても呂律が回っておらず明らかに様子がおかしかったので、病院に行ったら脳梗塞と診断、即入院。治療をしても状況は悪化するばかりで、1週間後に血管の手術をしました。

 はじめは歩くのも食べるのも難しかったのですが、リハビリでなんとか回復。「生活することが1番のリハビリ」という主治医の先生の言葉を励みに、介助するときの支え方などをばたばたっと教わって退院しました。手足の軽い麻痺と、身体の痛みが主な後遺症です。」

あ、これ「介護」だったんだ。

 「そのときは、これから介護の生活になるとは思ってなかったんです。要介護認定の申請を出しますかと聞かれた時に、はじめて「介護なのか!」と思ったくらいで。当時は私も母もよくわかっていなくて、申請もせず、なんとかなるでしょうと、のんきに退院。すぐ翌日に、これは大変だ!と感じました(笑)。病院のベッドで起きる練習をしていたのですが、我が家はお布団で寝ていたので、起きられない!となったり。ペットボトルのふたが開けられなくて飲めないことに気がつかないとか。お互いにこの生活が初心者すぎてあちこちでつまずいて。ひとつずつ、できそうな工夫をふたりで考えながら進んでいき、「介護」という言葉は、そのまますっかり忘れていました。もっと大変な人って世の中にいっぱいいるし、自分たちの状況を介護と呼んでいいのかわからなかったんですよね。その後何年か経って、母が肝硬変になったのを機に介護サービスの申請を出しました。」

– 30歳。「介護休職」という息つぎをした。

 介護サービスを利用し始める少し前、フルタイムで仕事をしながら、お母さんのケアをすることで頭がいっぱいだった悠さんは、ある決断をする。

 「脳梗塞になった直後の頃は、よしがんばろう!と、二人とも前向きなところもあったけれど三年も経つと諦めも増えて、投げやりな気持ちになったり。母が自分の不自由さを受け止めきれない状況をずっと横で見ていて、どうしてあげたらいいんだろうと、わからなかったんです。正論だけでは会話が成り立たないし。母が精神的に参ってしまって目を離せない状況が続いて、その時期が私もつらかったです。

 そして30歳になる夏ごろ、この状況をどうにかしようと思って会社の就業規則をみたら、「介護休職」という項目を見つけたんです。条件に当てはまるかをみてみたら、あれもこれもあてはまって……私もしかして休職できるんじゃない?って思ったんです。職場で介護休職をとる人がはじめてだったので、上司と就業規則を一緒に読みながら相談して、三ヶ月休職することになりました。」

 そうして思い切って取得した介護休職が、ガチガチになりつつあった悠さんの心を大きくゆるめた。

 「休職期間中は、朝起きて母と二人でリハビリの散歩に出掛けて、ゆっくり食事をとり、夜もなるべく一緒に寝て。それまではいつも時間に追われてバタバタしていたので、二人で呼吸を合わせるように、母と私のペースを合わせて暮らすようにしました。それを三ヶ月続けたら、母の精神的な落ち込みも落ち着いて、私もずいぶん元気になりました。

 同時に、働き方も考えるきっかけになりました。休職中に読んだ、石塚由紀夫著『資生堂インパクト: 子育てを聖域にしない経営』(日経BPマーケティング、2016)という本も刺激になりました。資生堂の育児休暇について書かれた本ですが、育休明けの社員に、勤務日数や時間など一律的な配慮をするのではなく、それぞれの事情に合わせて最大限働けるように聞き取りをしていたんです。

 それで私も復帰する時に、こういう働き方をしたいですという希望を、具体的に会社に伝えるようにしました。休職前はチームのリーダーをやっていましたが、それもやめさせてもらって。時短にしてもらい、社保を抜けないですむくらいのパートタイムに働き方を変えました。経済的なことを考えると不利にはなるけれど、今の私には何が一番大切で、何があれば気持ちが満たされるのか、休職したことで気が付けたんだと思います。家庭の事情はそれぞれ異なるし、自分の状況や希望は伝えないと会社側もどうしていいのかわからないですよね。もちろん通らなかった希望もあるし、お互いにとってちょうどいい点を探っていきました

–「はるから書店」ができるまで

 現在悠さんは、都内で会社員をしながら、ケアする本屋「はるから書店」を運営している。

「店舗を持たず、オンライン販売と、都内の書店の棚をお借りして出店したり、イベントで販売する書店です。「心をマッサージするような一冊をお届けします」というコンセプトで本を選び、読書会もオンラインを中心に行なっています。

 誰かに気持ちを傾けてケアをしていると、自分の気持ちに耳をすますことがおろそかになるんです。そういうときに本を読むことで、一回自分に矢印を向けてもらうような時間を持ってもらいたいです。読書会は、本に助けてもらいながら、素直に語り合える場にしたいですね。間に本というワンクッションがあるから普段言いにくいことも言えちゃう。心の中で色々感じた部分を読書会で外に出すことで、デトックスになりますよね。
 セルフケアになるような読書時間。中でもやはり「介護をしている人たちをケアしたい」気持ちが一番強く、そこを支えていけたらなと思い、介護に関する本やエッセイをご紹介しています。両親を亡くした経験から、グリーフケアにつながる本も今後増やしていきたいと思っています。」

 私自身、母を亡くした時など、こういう本を読みたいという思いはありながらも、なかなか辿り着けないことが多くあった。はるから書店さんが選ばれる本は、あの時の私、いや今の私にとってもハッとすることが多く、つい手にとってしまう。

 「介護」という言葉を意識しないまま、走り出す。そのときの状況に応じて、工夫しながら、葛藤しながら進んでいく。離職など、「やめる」という大きな決断のほかにも、まだ選択肢はある。困った時に組織や制度に頼り、いったん息つぎして、生きのばす。誰しもが軽やかに泳げるわけでもなく、自分なりの進路と息つぎポイントを探しながら、泳いでいく。

 沖に向かうばかりでなく、探せば、しがみつける岸は案外近くにあるものなのかもしれない。

介護の海の息つぎポイント

―「介護休職」の3ヶ月間

「休職した4年後、母は67歳で他界しました。脳梗塞の発作から、約7年間の介護。今振り返ると、思い切って休職した3ヶ月が、私にとっては大きな深呼吸みたいな時間だったように思います。あの期間以降、あれもこれもと頑張ろうとする気持ちから解放にされたんです。」

―読書する時間

「介護していた頃も、今も、私の日常的な息つぎポイントは、読書している時間です。本は病院の待合室でもどこでも読めるし、頭の中では別の次元へ行ける。寝る前に本を読んでいて、朝からバタバタと母の介護や仕事に追われた後、また夜に同じ本を開くと何も変わらない時間がそこにあるのが、ホッとするというか。
 介護休職をしたときは、長時間身体を起こしていられない母のサポートをしながら一緒に小説を読んだのもいい思い出です。」

【お知らせ】

そんなはるから書店さんの読書会に、お声がけいただきました。介護を経験されたかたもそうでない方も、読んだ方が、本を通じて自分自身の気持ちに耳を澄ませるきっかけになったら嬉しいなと、書いた身としても想いを込めて。

「第3回はるから読書会 著者さんと一緒におしゃべりしよう」

2023年9月30日(土)19:00〜21:00
オンライン(zoom)にて

ゲスト:あまのさくや 参加費 ¥1000

お申込ははるから書店のオンラインサイトまで。

介護の海を泳ぐ人:小黒悠(おぐろゆう)

1983年生まれの元図書館司書。都内で会社員をしながら、ケアする本屋「はるから書店」を運営。『介護ダイアリー』の「その後の日々」をブログで綴っている。

ケアする本屋「はるから書店」

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