介護の海の泳ぎかた vol.7
ー「書き出す」の効能

家族だから、言われたくないことがある。親や兄弟だから、許せない行動がある。
友だちなら誘いを断るとか、距離をとる手段があっても、家族だから離れられない境遇や事情があったりする。右にも左にも行けない、ただ目の前に「〜ねばならない」現実がある。
そういう心情のときにやってみてほしいことがある。それは「書き出す」ということだ。

手段はスマホのメモ機能でも、手帳やノートに手書きでも、PCのワードソフトでも、SNSの裏アカウントだって、その人にとって心地よければなんでもいい。
何かを書こうとするのではなくて、大事なのは「書き出す」。文字が表す通り、自分の中に止まっているものを、物理的に書いて、出すこと。
それは自分のぐちゃぐちゃな感情を、一度自分の身から切り離すという行為でもある。

私が「書き出す」ことに一番救われたのは、女の大厄と言われる、32歳(数え年33歳)のときだった。
この年、母のがんが発覚した。その前年に、父に若年性認知症の診断が下りたばかりだった矢先の、突然のできごと。
さらに加えるならば、母のがんが発覚したのは、私は婚約破棄をして実家に出戻ってきたばかりのときだった。

厄年という概念では片付けられないほど、複雑な感情が心に絡みついていた。
今思えば、激しく混乱していたのだと思う。どうしてこんなことになってしまったのかというやり場のない怒りと、唐突につきつけられた、母が死ぬかもしれないというとてつもない恐怖。

そんな中で父の認知症は容赦なく進み、自分で食事を用意して食べたり、適切な時間に寝て起きる、今まで当たり前にできていたことも、もうできなくなっていた。
それでも父は自分が病気であるという認識がなく、「自分のことは自分でできる」と言い張って、母に横柄な態度を取っては喧嘩が起きる、そんなことが続いた。
私はかつての父とは異なる姿に失望したり、余裕のなさから父にひどい言葉をぶつけては自己嫌悪に陥っていた。

そんなとき、私はふだんから使っていたメモアプリに日記を残すようになった。
何を書いていたかといえば、父に言われた言葉や自分が言った言葉や、どんなできごとがあってどんな喧嘩をしたかとか、そういう状況の羅列がほとんどだった。
書き出そうというよりも、絞り出すように書いて、自分から出そうとした。その行為が私にもたらした効能はこんなものだ。

① 自己嫌悪タイムの軽減

たとえば家族に対してイライラしたとして、その苛立ちを悪口のように書き連ねると、誰にも見せるつもりがない日記なのに、どこかばつが悪い気持ちになってしまう。
だから私は自分の発言や感情よりも、相手から言われたことや起きた出来事、それまでの過程の時系列などの周辺状況を書きつらねるようにした。

自分が経験した現実をどこか客観的に眺めるようにすると、後から見返した時にも「それは大変だったね」と他人ごとのように慰めることができた。
父という対象を責めるのではなく、その言動や行為を記録に残すことで、「病気によってこんなことを言ってしまっている」という状況を捉える。

父を嫌いにならないために、私なりに必死の対策だった。感情については書かずとも、状況の記録を見れば後からでもありありと思い出すことができたので、渦中にいる自分にとって目の毒となりえるものは、無理に記録しなくても良かった。

② 負の感情を押し殺さない

性格上、良くないことが起こると自分を責める傾向にある。他責か自責かでいうと明らかに自責タイプである私は、誰かに対して怒ることに慣れていないからか、怒ると異様に疲れる。

そうやっていつからか自己防衛策として、怒らないようにするクセがついた。だけど通常時よりも感情の乱高下が激しかった介護の場面ではそうもいかない。
起きた状況を書き出しておくようになってから、何に対して自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、何に対して違和感を感じたのかを見えるようになった。

しんどいときは、書いたきり見返さなくてもいい。それよりも怖いのは、「こんなこと思ってはいけない」と押し殺し、自分の感情をなかったものにしようとすること。

自分を責めるのに忙しく、その場で相手に対する感情を押し殺すと、あとで溜めてしまった感情が一気に湧き出して厄介になることもある。
最終的には、自分で自分の負の感情を否定してはいけない。それは自分を見放す行為でもある。

③ 認定調査にも活かせた介護記録

介護を経験してみて思ったことは、とにかくさまざまな関係者と話さなければいけないということ。
それはケアマネージャーさん、デイサービスの職員さんやヘルパーさんなど。
さまざまな介護サービスに伴う「契約」が発生するたびに、父や我が家族の状況について事細かに聞かれる。

とりわけ記録が役に立ったのは「要介護認定調査」だった。
これは「要介護」や「要支援」など必要な介護度を決定する大事な調査であり、介護度によって利用できるサービス上限が大きく変化する。

介護度が高ければいいということではないが、当時の状況で「要介護1」をどうしても取得したかった私は、父の様子を記録したWordファイルを認定調査員に渡した。
父自身が受け答えするインタビューよりも家族による客観的記録はエピソードとして伝わりやすく、調査員に届いたようだった。
自分の整理のために書いていたものが他の人に伝える過程でも役立つという、思わぬ副産物。
父や家族にまつわる状況をできるだけ関係者に忠実なニュアンスで伝えられることは、自分たちに即した介護サービスを受ける上でとても大事なことだった。

では、まず何をすればいいのだろう?

書くツール。あなたにとって心地よいものはなんだろう。
私にとっては、スマホからもPCからも書けるメモアプリは有用だった。
私の場合、まずスマホから思い付いた時に書くのはiPhoneに初期設定から入っている「メモ」で、のちにPCから長文を書きたい気持ちのときは「evernote」「Notion」を使った。

手書き派は、家にあるノートでもなんでもいい。だけどまずは、自分の好きなデザインのノートと、書きやすいペンを選んで買うところから始めても楽しい。
自分に合う厚みや形、罫線ありかなしか、ペンは万年筆タイプもいいし、カラーペンもいいか……。
他者のことを考えざるを得ない時間が多い介護の中で、自分の好きなものを選ぶ時間は楽しいはず。
最近私は「測量野帳」のブルーのノートを使っている。測量野帳といえば緑のイメージがあった表紙の色はいくつか展開があって楽しい。万年筆「カクノ」もカラーインクが選べるし、手入れも簡単で書きやすくて好きだ。

何を書くか? 迷ったら、まず今日何があったかを書いてみる。
朝食は何を食べたっけ、と考えているうちにその日に何があったかを少しずつ思い出してくるかもしれない。誰かにとって見やすいメモでなくていい。自分のために書くものだから。

対人関係の怒りや、日常の理不尽に対して思う気持ち、喪失感、悲しみ。友だちとの雑談の中で吐き出しづらくとも、自分の中に確かに存在する、ドロリとした感情。
まだとろみのあるような段階のうちにその存在を認めてあげれば、まだ自分でも飲み込めるかもしれない。その感情にフタをして見えないふりをしてしまうと、それは塊になり、やがて石になってしまうのではないか。
私は一度尿管結石を経験したことがあるが、あれは相当に痛かった。石化したものが体にとっていかに毒か。感情もきっと、そうではないかと思う。

真っ白なノートに向き合うとなんだか途方に暮れてしまうかもしれないけれど、いざ書き出してみると書く前よりも気持ちが落ち着いていると思うから、試してみてほしい。

そう、お風呂みたいなもの。入る前はあんなに億劫なのにお風呂上がりは絶対にさっぱりするし、入らなきゃよかったなんて後悔したことがあっただろうか。
そしてお風呂に入れば血行が良くなるように。書き出すことの効能も信じて、一度やってみてほしい。