家族に頼らない老後を考える vol.1

この回では、家族に頼らずに老後と死を迎える主に高齢者の法務問題に携わっており、現在は、「家族に頼らないおひとりさま」が、いつどんな状況になってもその尊厳が守られるような仕組みを提供している株式会社OAGライフサポート、代表取締役の黒澤史津乃さんに、今の日本で起きている、老後や介護にまつわる家族の問題について事例を交えながらわかりやすく綴っていただきました。


根深い「日本型福祉社会」という価値観

今の日本では、40年以上前に提唱された「日本型福祉社会」という価値観が根強く残っており、家庭の中で起こる問題はすべて家庭の中だけで、特に女性の手によって解決することが美学であるかのように認識されがちです。

介護保険制度の浸透により、実際の介護については外部化が進展してはいるものの、近年、各分野でリスクマネジメントが進めば進むほど、ケアの領域における「名もなき家族の役割」は増す一方です。

これだけ多様化が受容される時代となり、実際に家族のカタチも多様化しているにも関わらず、なぜかケアが必要になった途端に、重要な方針を決定する主役が本人から家族に自動的に移行してしまう。
そんな現実を、二人の姉妹の視点の具体例からご一緒に考えてみましょう。

ある姉妹の例

【金子美月さん(60)の場合】

私は子供の頃から、容姿も普通、学校の成績も平均程度という目立たない女の子でした。
容姿端麗・成績優秀・運動神経も抜群の3歳年上の姉・真知と常に比較され、コンプレックスを感じながら青春時代を過ごしてきました。

そんな私でも、遅い方ではありましたが結婚して、ひとりっ子ですが女の子に恵まれ、夫が次男だったこともあり、今から25年程前に、古くなった私の両親の住む実家を取り壊して二世帯住宅を建てました。
「安定」をモットーとする私は、それなりの幸せを手に入れたのです。

姉ですか?姉はいわゆる外資系金融機関に勤める「バリキャリ」で、遊びにも手を抜かず、容姿と優秀さを武器に、独身の人生を謳歌している様子でした。
都心のタワマンを賃貸して暮らしており、私たち家族が、都心から1時間ほどの郊外の実家を二世帯住宅に建て替えて両親と住むつもりだと一応相談したときも、姉は「どうぞ、どうぞ」と気にも留めない感じでした。

姉は年に1~2度程度ですが、ふらっと私たちのところに姿を現していました。喜ぶのは私の娘です。
母親である私より3歳年上であるはずなのに、いつも洗練された姿で颯爽と登場する姉は、娘にとっては「綺麗な憧れのお姉さん」という存在でした。

「お母さんはどうして真知姉さんみたいに、きれいにメイクしないの?」という娘の素直な言葉は、私の心に容赦なく突き刺さりました。

私は結婚を機に退職して専業主婦になり、その後は、家事・育児を完ぺきにこなし、その合間を見て、配偶者控除内でパートをするという生活でした。おしゃれをする余裕など、時間的にも経済的にも精神的にもありません。
どうせ姉と違って似合わないという、コンプレックスもありました。

父は定年退職から数年後に、すでに進行した癌が見つかり、あっという間にあっけなく逝ってしまいました。
そのときは、しっかり者の母が元気でしたので、病院のことも亡くなった後のこともすべて母が気丈に取り仕切り、私が口を挟むことなど何もありませんでした。
相続についても、父の名義のものはすべて母が引き継ぐことで、私も姉も同意しました。

しかし、母のときは違いました。80歳を目前にして自宅で転倒し大腿骨を骨折してから、身体機能と認知機能が一気に衰えました。
母が亡くなるまでの5年間にわたり、私は母の介護を一手に担いました。
もちろん、介護保険でケアマネさんやヘルパーさんのお世話にもなり大変助かりましたが、同じ屋根の下に娘が住んでいるのに他人任せにするということに抵抗がありました。
最後の1年は、ケアマネさんも「在宅では難しくなってきているので、特別養護老人ホームに申し込んだらいかがですか?」と勧めてくれましたが、私は自宅で母の世話をやりきりました。

その間、姉はというと「私は仕事が忙しいし離れているから。お役に立てずにごめんなさいね、美月ちゃん。」の一言だけで、それから一切、実家には寄り付かなくなりました。

大変だったのは、母が亡くなった後の相続です。

母の面倒を全部見てきたのは私。暗黙の了解で、母名義だった土地のすべてと二世帯住宅の共有持分については私が相続し、預貯金など金融資産については姉と半分ずつで分けよう、もしかしたら姉は、それもいらないと放棄するかもしれないと、安易に考えていました。

ところが姉は、これまでの経済的余裕を漂わせていた雰囲気を一変させたのです。
「すべて2分の1ずつにすべき。土地建物を美月が相続するなら、その分をお金に換算して私に渡すのが筋だ」と主張するのです。信じられますか?母の介護には何一つ協力しなかったのに

泥沼の遺産分割協議の始まりでしたそれぞれ弁護士を立てて裁判所での調停となり、3年かかってようやく決着がつきました。

当然、姉と私との間で直接連絡を取り合うことは、その後、一切なくなりました。
それから2年後。

母名義の不動産を相続するために、姉に代償金を渡さなければならず、母の預貯金だけでは足りなかったので、老後資金として貯めていた定期預金を使ってしまった私は、ひとり娘もようやく大学を卒業して就職したので、パート勤務に必死で取り組んでいたところ、その真面目さが評価されて、60歳にして正社員として働けることになりました。

ここから65歳の定年まで頑張って働いて、老後資金を貯めなおそうとしていた矢先、都心の大学病院から電話がかかってきました。

「金子美月さんですか?お姉さんの山下真知さんが、救急搬送されて意識のない状態で当院の救命救急センターにいらっしゃいます。医師からご家族の方に説明がありますから、いらしてください。」

私は、一瞬なんのことだか理解できず、頭が真っ白になりました。

確かに独身の姉にとって、「家族」といえば私しかいません。ここからまた、私の苦難の道が始まるのでしょうか。

※次回は、【山下真知さん(63)の場合】をお届けします。