家族に頼らない老後を考える vol.2

この回では、家族に頼らずに老後と死を迎える主に高齢者の法務問題に携わっており、現在は、「家族に頼らないおひとりさま」が、いつどんな状況になってもその尊厳が守られるような仕組みを提供している株式会社OAGライフサポート、代表取締役の黒澤史津乃さんに、今の日本で起きている、老後や介護にまつわる家族の問題について事例を交えながらわかりやすく綴っていただいてます。


根深い「日本型福祉社会」という価値観

今の日本では、40年以上前に提唱された「日本型福祉社会」という価値観が根強く残っており、家庭の中で起こる問題はすべて家庭の中だけで、特に女性の手によって解決することが美学であるかのように認識されがちです。

介護保険制度の浸透により、実際の介護については外部化が進展してはいるものの、近年、各分野でリスクマネジメントが進めば進むほど、ケアの領域における「名もなき家族の役割」は増す一方です。

これだけ多様化が受容される時代となり、実際に家族のカタチも多様化しているにも関わらず、なぜかケアが必要になった途端に、重要な方針を決定する主役が本人から家族に自動的に移行してしまう。
そんな現実を、二人の姉妹の視点の具体例からご一緒に考えてみましょう。

前編【金子美月さん(60)の場合】

ある姉妹の例

【金子真知さん(63)の場合】

私は子供の頃から、何事においても要領良く生きてきたと自負しています。
たいして努力をせずとも学校の成績は常にトップクラス、スポーツも得意でしたし、自分で言うのもなんですが顔立ちが整っているので目立ってしまうんですね。

学生時代に男の子から告白されることは日常茶飯事でしたし、大人になってからもプロポーズされたことは1回や2回ではありませんでした。
でも、外資系金融機関に勤めており、海外出張もしながらそれなりの地位につき、かなりの年収を稼いでいた私は、「結婚相手として、もっと自分に釣り合う人がいるのではないか」と考えてしまい、すべてお断りしてしまいました。
もちろん、仕事が順調でやりがいを感じていたので、結婚や出産によって、キャリアが中断してしまうことに躊躇してしまった気持ちもあります。

妹が1人います。3歳年下の妹の美月は、地味でおとなしくて、子供の頃からいつも私の後ろに付いて歩く子でしたね。
もっとおしゃれをすれば可愛くなるはずなので、私のメイク道具やお洋服のお下がりをあげようとしても、「私にはお姉ちゃんみたいに似合わないから」と受け取ってくれないんです。
私と違ってあまり要領は良くないのですが、地道にコツコツと努力をするという私とは違う才能を持った妹でした。

なので、もう30代後半でしたが、妹の美月が堅実そうな男性と結婚したときは嬉しかったです。
私がそのとき既に「生涯独身」宣言をしていましたから、両親も「これで孫の顔が見られる」ととても嬉しそうでした。
その頃、まだ私は経済的にも精神的にもかなり余裕があったので、妹家族が実家の両親と二世帯住宅を建てて一緒に暮らすと聞いたときも、実家の両親がこれで寂しくならないだろうと感謝したくらいです。

しかし40代後半になると、私の人生設計が少しずつ狂い始めました。
外資系金融機関で仕事も若い頃のようにはうまくいかなくなり、容赦なく年収は切り下げられていきました。でも、これまで食事にも美容にも贅沢をしてきた生活を、そう簡単に切り詰めることはできません。焦りの気持ちばかりが募っていきました。

年に1~2回は実家に顔を出し、二世帯住宅の上の階で暮らす妹家族にもお土産を持って会いに行きました。ちょっと無理をして小学生の姪が憧れるようなお土産を渡すと、姪っ子が目をキラキラさせて私のことを見てくれます。
そんな姪っ子の様子を、苦虫をかみつぶすような目で眺める所帯じみた妹の美月を横目で見て、こんなことで些細な優越感にひたる自分に、かえって自己嫌悪を感じていたことも事実です。

50代になると、切実に余裕がなくなってきました。若い頃にかなり稼いでいたとはいえ、稼いだ分だけ派手に浪費してしまっていたので、預貯金はあまりありません。そのときの年収が生涯続くと錯覚していたのが間違いでした。

父の病気と亡くなった後のことは、元気だった母がすべて対応してくれました。

80歳になった母は、大腿骨骨折をして以降、身体の状況も認知機能も一気に衰えてしまいましたが、ちょうど育児もひと段落して暇になってパートに出ていた妹が、二世帯住宅で同居していることだし同じ屋根の下にいるのだから、すべてやってくれるということで、任せることにしました。
離れて暮らしている私が出ていくとやりにくいでしょうから、私はその後、一切、母の介護に口を出さないようにしました。
母にたまには会いたい気持ちもありましたが、妹の美月が母の預貯金も含めてすべてを管理していたので、会いに行きにくかったですね。

母が亡くなった後、妹との間で、母の遺産を巡って3年間も争うことになってしまいました。
そもそも私は、これまで両親からの援助を受けたことは一度もありません。すべて自分ひとりの力で生活してきました。

一方で妹の美月はどうでしょう。
二世帯住宅を建てたときには、もちろん両親からの資金援助もありましたし、新居の家具などはすべて両親が用意してくれたと聞いています。
しかも、両親はたったひとりの孫である美月の娘を溺愛していたので、かなりの援助をしていたと聞いています。これだけでも、私と美月とは同じ姉妹であるにもかかわらず、かなり不公平な扱いを受けてきているのです。

それなのに妹の美月は、当然のように母名義の土地と建物を自分がすべて引き継ぎ、預貯金の半分だけを私に渡すと言ってきたのです。残った母名義の預貯金だって、これまですべて美月が管理してきたのだから、美月が勝手に使うことも簡単にできたはずです。

私が平等に半分の遺産相続を主張したことは、そんなにおかしなことでしょうか?

私は、母からの遺産を得ることによって、自分ひとりで老後を迎える備えをしておこうと決心しました。しかしその結果、妹の美月とは一切連絡すら取ることのできない関係になってしまいました。

それから2年後。

63歳になった私は、とっくに外資系金融機関からは「戦力外通告」のような形で退職を余儀なくされており、派遣社員として細々と仕事をつづけていました。以前住んでいた都心のタワマンは家賃が高すぎて、もう10年以上前にかなりランクを落とした狭いアパートに引っ越しをしました。

それでも今も都心のデパートのコスメ売り場に通う趣味はやめられず、その帰り道、地下鉄のホームで急に後ろから金属バットで後頭部を殴られたかのような激しい頭痛を感じ、意識が遠のいていきました。
遠ざかる意識の中で、救急隊のような人たちが「ご家族は?」「連絡先は?」などと叫んでいるのが聞こえてきました。

家族がいない私は、これからどうなっていくのだろう。
そんなことを、他人事のように思ったのが最後の記憶です。

さて、複雑な人生模様の真知さんと美月さん姉妹。
「家族」という関係、特に血縁関係は、切ろうと思っても切れるものではありません。

次回、「家族」として求められる具体的な役割について、引き続き真知さんと美月さんの事例でご一緒に確認してみましょう。