わたしと夫と、ときどき母と。vol.1 ー私は、夫とともに私を育て上げたー

この連載では、instagramでもご自身の夫の在宅介護を綴っていらっしゃる、イケヤイクコさんに、ご自身のいままでのこと。そしてこれからのことを語っていただいています。


私は、自営業の父と保育士の母に育てられ、35歳年上の夫の傍で、今なお育ち続けている。
自営業で時間に融通がきく父は、イクメンなんて言葉がない時代に、家事育児をこなした。
私がイクメンという存在を知ったとき、そのタスクが父には遠く及ばず、だからカタカナなんだなと思ったほどだ。日本語は、漢字を使った方が多くの意味を持たせられる。
自宅には、保育や育児に関する本がたくさんあり、それらの背表紙から、本を読んだからといって、それだけでは、なんにもならないことを、私は学んだ。ちなみに、母も、父と同じくらい家事育児をこなしていた。

両親の優しさに包まれ、個性を尊重され、何不自由なく、私は育てられた。 特に個性は尊重された。
『自分が生きたいように生きろ』 それが、両親の子育ての根幹であったように思う。

けれども、保育や育児に関する本を読んでいた母も、家事も育児もこなした父も、わが子を 受けとめ、わが子と向き合い、わが子の苦悩を知ろうとすることからは、逃げた。

その結果、私は、両親よりも年上の男性と結婚することになる。
夫には、両親にはない厳しさがあった。
私を優しく思いやりのある人間に育てたのが父と母であれば、私を強くたくましく育てたのは夫である。
私は夫のおかげで、なりたい自分に成長できた。
夫と出会う前、私は高校を中退し、定職にもつかず、このままでいいわけないと思いながら、どうすればいいのかもわからず、ふらふらと生きていた。
生まれたから、生きている、ただそれだけ。
けれども、なにかを求めていて、だから、夫に出会ったとき、私の人生に今、必要なのは、この人だと感じた。
夫は、私に、未来を見すえて行動する必要性を説き、個性を隠せと教えた。社会に染まれと。
両親は、私の発想する力を育て、夫は、私に現実を見すえて考え行動することを学ばせた。
夫は、とてつもなく厳しく、私の心は、幾度も血を流し、それでも私は必死で夫に食らいついた。
私は、私のことを見捨てず傍にいてくれた夫の期待に応え、辛らつな言葉で私を罵倒する夫 に、『私はここまでできるんだ』と、見せつけたかった。私がちゃんとした大人になること で、夫を見返し、夫に認められたかった。
ふたりの関係は、歪だったけれども、私にとって、かけがえのないものになっていった。
そして、私は、夫の私に対する姿勢によって、両親が『わが子を育て上げることを放棄した』のだと認識し、両親に対して、お金以外の親の役目を期待しなくなった。
両親は、私に、逃げることで得られる未来を教えてくれたけれども、立ち向かうことで得られる未来は教えてくれなかった。教えられなかったのかもしれない。
将来、両親が歳をとり、自身の老いによるさまざまな苦悩と向き合う必要がでたとき、私は、そこには寄り添わないであろう。夫との絆が深まるにつれ、私のなかに、そんな思いがつのっていった。
私は、寄り添うことは、思いやりや優しさだけではないと感じている。
葛藤し、ぶつかり合い、受けとめる。
活を入れ、励まし、慰める。
子どもと向き合うことを放棄した親に、そんなことは、してやらない。
それに両親は、私の厳しさに堪えられないだろう。
今、私の夫と私の母は、ともに日常生活で介護が必要な状態にある。
一足先に、介護が必要になった夫は、私によって、徹底的に自分の病と向きあわされた。
私にとって、夫が今までで一番厳しい人間であったように、夫の人生で、私が一番厳しい人間であろう。
夫は、私の厳しさに応えた。私が夫の厳しさに食らいついたように。
そして今、ひと皮もふた皮もむけた夫がいる。
私は、夫の介護がどん底のときですら、夫との未来を想い描き、自分の全力を注ぎ、這いつくばって進んできた。
私と夫の未来のためなら、私はとことんがんばれた。
けれども、両親の未来のために、私がこの先なにかするとすれば、それは私の仕事を増やさないようにするためだろう。
要所要所で、必要なことはするけれども、それ以上のことを両親のためにするつもりは、今のところない。